イクサン市 彌勒寺址(3塔 3金堂を持った東洋最大の寺)
お問い合わせ先 | 063-859-3873 |
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利用時間 | 10:00 - 18:00 |
入場料 | |
住所 | 全北 イクサン市 グンマ面 ギヤン里 |
紹介
彌勒寺は、新羅の侵略を仏教の力で止めようとした護国寺として設立されたと言われている。よって彌勒寺は、百済が滅びるまで王室の寺として、そして護国の寺としてとても重要な役割を持っていた寺であった。百済最大の伽藍である彌勒寺の創建については、「三国遺事」に書かれてある。新羅の善花姫と婚姻した後、王になった薯童・武王(百済30代王600-641)が善花姫と一緒に龍華山(現在の彌勒山)獅子庵の知命法師に会いに行く途中のことだった。池の中から突然、彌勒三尊が現れたのだ。これを機に彌勒寺を創建したのであった。全羅北道益山市金馬面箕陽里にある彌勒寺は、百済最大の寺で、30代王の武王(600~641年)により創建され、17世紀頃に廃寺されてものとして知られている。彌勒寺址が発掘される前には、百済が創建された当時に建てられた彌勒寺址石塔(国宝11号)1つ、そして石塔の北と東北にある建物の礎石と統一新羅時代に寺の正面の両サイドに建たれた幢竿支柱2つ(宝物236号)が残されているだけだ。彌勒寺址に対する調査・研究は、日本人が1910年に古跡の調査を始める際に、残された石塔に関する部分的調査を経て'品'の字の形をした伽藍配置になっているものだと主張されてこともある。その後、1974年と1975年に、圓光大學校の馬韓・百済文化研究所では、東の方に残っている塔の跡地にあった塔が木造塔なのか石造塔なのかを明かすために東塔地一帯を発掘・調査し、石塔と同じ規模の石塔地であることを確認した。1980年に入っては、文化財研究所で、百済文化開発事業の一環として、当時最大規模だった彌勒寺址を整備・保護し、これを社会教育の場として活用するため、総合的に発掘・調査をすることになった。その結果、日本人が主張した'品'の字の形をした伽藍配置は正しくないという事実が確認された。調査結果、伽藍配置は、東塔と西塔があり、その間に木塔があって、各塔の北の方に金堂の性格を持った建物が一つずつあったことが確認された。そして、これら塔と金堂を区分する回廊があり、東の方は東院、西の方は西院、中央のものは中院といって、三院並立式の伽藍配置をしていることが分<